ふと思ったことです。
子供の頃はなんでも楽しかった。
子供時代は毎日幸せだった気がする。
と思い、1つの仮設を考えました。
幸せとは「知らないこと」ではないかと。
「知らない」とは①体験したことがない。②それ以上高価(良い)と感じるものがないこと。
まず、初めて体験することは一番印象にのこりますが、数回やってると印象も薄れる。最近僕の体験だと、バイオハザードの初見プレイのドキドキ感はすごかったです、一瞬一瞬気が抜けない、敵1体1体倒せた時の安心感は印象強く残ってますが、2回目のプレイは一種の「作業感」がありました。とはいえバイオハザードは幸福感というより恐怖感なので趣旨とずれますが笑 初めて食べるお菓子や、アイス、料理の方がイメージしやすいかもしれませんね。
次に、それ以上価値あるものを知らないこと。子供のころは学校が世界のように感じてそれ以上大きな世界を知らない、社会を知らないのでそこで良い成績や他人より優れていることが見つかるととても誇らしく感じますが、世界にはもっと強い人がいることを知ると比較して自分は無力と思うのでないでしょうか。
例えばハワイに行けたら幸せだと思っていたとして、ハワイに行くことは現実的に可能だったとします。しかし、ハワイに別荘をもって余暇を有意義に楽しむセレブなんかを知ると、ハワイに行くことが自分の中の最大ではなくなってしまう。良いモニターや冷蔵庫などの家電製品を買ったら嬉しくなるけどそれ以上に高性能や最新版の商品があることがわかっていると冷静になってしまう。
自分の中の最大を経験することが幸福につながるのでしょうか。
思い立ったらすぐ行動する人はその瞬間に自分の中の最大限をすることができるので満足感も大きい、じっくり調べる人はベストはこうだけど自分はここまでしかできないんだよなーと。
失敗や損失のリスクを考えると必ずしも知らないことが良いわけではないと思いますが、体感として幸せを感じる事を重視するなら知りたいという好奇心を捨てるのも1つではないでしょうか。
逆につらい経験は、それ以上に大変な世界を知らないから自分は最大限のつらさを味わってると感じるのだとしたら、知識が増えれば増えるほどつらく感じることは減るけど幸福に感じることも減る。
情報化社会は、CMやネット広告のように知らなければ欲しいと思わないけど、知ってしまうと欲しくなるようなものもありふれているので、失敗や損をしないことを重視するなら「知らないと損」という言葉が文字通り当てはまりますね。