とても久しぶりにブログを更新します。
(言い訳Time) 日々コツコツ本を読んだり映画を観たりしてはいたのですが、その瞬間瞬間で、これ面白いな!とかおおなるほど!とか思ったことは数知れずありました。
しかし、本だと、ブログを書こう!とかノートに読書記録取ろう!と思うページはあるのですが、最後まで読み切ってからでないとまとまったことが書けないんじゃないか。と思っており、後回しに。
仕舞には、読み終わった達成感と同時に気持ちも次の本へスイッチング。この本ってなかなか良かったけど何が良かったんだっけ?とすっかり忘れてしまい、読み返すのもちょっと面倒になります。一応何か感じ取ったページや一文には付箋をつけているのですが・・・5ページに1つは付箋がついているんで、あとから見るとさらに読み返しが億劫になってしまいます(笑)さらにいうと、ふせんにも色分けしてあるので、色別に「感動したところ」「単語や定義」「ケーススタディ」「参考文書・映画」などテーマ別に検索はしようと思えばできるようになってます!(堂々と言ってますがそれすらめんどい。いつか読み返すだろうという、いつかの自分の為のものでございます。)
では、読んでる最中と読み終わりの感情の差はなんなのか?
ということを考えては、答えが出ずに日々を過ごして(ブログを放置)いたわけですが、今ちょっとわかった気がします。
その気づきになってくれた本が2冊。
ピーク・エンドの法則か?
まず、「Think cleary(シンク・クリアリー)」という本でした。
p.183「22 思い出づくりよりも、いまを大切にしよう」の一節、p.187「ダニエル・カーネマンの「ピーク・エンドの法則」」の「記憶違い」の実験あたりです。この章は、「体験している私」と「思い出している私」という2人の自分が居るという話です。
・「思い出してる私」は、夏休みであったり、苦難の部活の合宿だったり、本を1冊読んだ後、過去を振り返る自分です。思い出や過去の出来事の記憶というのは、一番印象深かった瞬間と一番最後のひと時であるピークとエンドの2つの写真しかもっていない傾向にあるようです。
・「体験している私」は、今この瞬間を感じている自分です。今感じたことはすぐ忘れてしまいかもしれないし、長期記憶しているかもしれないですが、いまを感じていることができるのはこの瞬間だけ。
幸せと苦労を純粋に感じられるのは「体験している私」で、思い出として語っている私(思い出してる私)は幸せの記憶しかないかもしれない・苦労した記憶しか残ってないかもしれないし、それは美化された記憶かもしれないし、過度に強調された記憶かもしれない。典型的な例は、都合が悪いことは忘れて思い出に残ってるようなイメージでしょうか。
ちなみに、「Think cleary(シンク・クリアリー)」という本は、変化の激しい現代を生きるために役に立つ52の考え方を、いろいろな研究や論文やアンケートをエビデンスに説明しています。よくある自己啓発の成功の秘訣は〇〇というような、サンプル数1人という「あくまで個人の感想です」と言っているような本に比べれば、理論的に根拠・事実・意見という構築なので腑に落ちやすいです。
思い出してる私が語る、この本で好きなところは「フォーカシングイリュージョン」と「心の引き算」でした。
ピーク・エンドの法則をさらに一歩応用したら・・
次に「ホモ・デウス(下)」。p114「どの自己が私なのか?」→p.119「この冷水実験は・・・」あたり。
前の本とこの本を読んだ時期がたまたま近かったことと、冷水実験とピーク・エンドの法則の話がリンクしていたので、二つの話が結び付きました。同じ事実について、著者の意図する意見と感じ方の違いで微妙に異なる結論が出るのが面白い!
・冷水実験とは? 先ほどのピーク・エンド法則の「思い出してる私」と「体験している私」の裏付けとなった実験です。こちらの本では「物語る自己」と「経験する自己」という表現になっていますが、翻訳家さんの感性なのか、著者さんの英語の表現自体が違うのかはわかりません。
実験内容はA「1分間14度の冷水に手を付ける」、B「A同様1分間14度の冷水に手を付けた上に、さらに15度の冷水に30秒手を付ける」というものです。普通に考えれば、BよりもAの方がまだマシ!だと思います。(真夏の日本で読んでる私にとっては、どっちも至福じゃね?と思います。)
この実験は、被験者達の半分はA→Bの順、もう半分はB→Aの順として順番による偏りはなくしているようですが、両方体験してもらった後で、「もう1度体験するならどっち?」と聞くと大方が「B!」と言った。というお話です。
ピークエンドに当てはめて、不快感がピークの瞬間は14度とAもBも同じですが、エンドの瞬間はBの方がややマシです。不快を感じている時間ではなく、人はピークとエンドの2つの瞬間しか切り取らないらしいです。僕の言葉に落とし込むと、思い出はフローではなく2点のストック、すなわち動画ではなく2枚の画像であるということでした。(自分の言葉でアウトプットすると記憶の定着率が良いそうです。)
この本「ホモ・デウス(下)」によれば、「経験全体の価値は、ピークと終末を平均して決める。」とのことです。(自分の言葉で文章を書いた後に、著書の言葉を引用するといかに自分の語彙力と表現力がないか思い知らされます ( ;∀;) )
前の本と違う点は、この「平均して決める」というニュアンスです。ちなみに、この心理トリックを使ったものが献血でしょうか、献血という痛い経験をしますが、最後にご褒美でお菓子がもらえたり、あなたがいかに有意義なことをしたかと感謝してもらったりすることで、楽しかった・誇らしくなったという終末(エンド)で締めくくれるため、事あるごとにまた献血しようと思えるのでしょう。反対に楽しいテーマパークや旅行も、帰りの電車や飛行機で嫌な思いをしたら台無しになってしまうこともあるということでしょうか。
もう一歩踏み込んだ時に、経験する自己は物語る自己よりも強力であると言えるそうです。なぜ人が目標を達成できないかの1つの答えでもあると感じました。
「物語る自己」が、新年に今年はダイエットだ!毎日ジムに行って運動だ!と目標と立てても、「経験する自己」はジムまで移動するのめんどくさいし、さらにそこから体動かすんでしょー、今日くらいゆっくり家でゴロゴロしてもいいんじゃない。と主導権を握ってしまうそうです。確かに思い返せば僕も山のようにこのような経験はあります。「物語る自己」(計画Plan)と「経験する自己」(行動Do)が常に一致してればかなり向上できそうですが、PDCAサイクルを回すと言っても、個人の習慣レベルになってくると計画を実行に移すことすら難しい。これを打破するには、計画時にもピーク・エンドの法則を取り入れるべきだったんですね。つまり、ジムに行くという目標だった場合、ジムで汗をかいた後は好きなものを食べてもよい!・1日の残りを手を抜いてよいなど終焉(エンド)にご褒美を取り入れることも計画に組み込むべきなのでしょう。多分、次第にジムで汗をかくということ自体が楽しいと感じるようになり自然にピークエンドもポジティブな思いでとして経験全体の価値が形成されていくことを考えれば、習慣化する前は多少大げさなご褒美があってもいいはず・・・!
結論
話を僕の例に戻し、本を読んでる時に、「これはすごい!・感動した!」と小さな感情の起伏をずっと体験していても、読み終わった後にのこる記憶は起伏の最高点または最低点(ピーク)と本の最後(エンド)だけなのでしょう。エンドは大抵、謝辞かあとがき、〇〇さんの解説などで終わるので、すこし興奮が冷めてしまっている気がします。この2点の平均がその本に対して自分が感じた価値なのでしょう。
ということは、面白いと思ったら、「体験してる私」「経験する自己」が消える前に、その瞬間をメモ帳や下書きに書き込んだり、読み終わる前にブログ書いてもよいということなのではないかと思い体験している私に身を任せて文を書くのも悪くないなと思いました。とはいえ、体験してる私の状態で書いた作文などを後で見返すと、恥ずかしくて読んでられないような文になっている気がしなくもなくもなくもない(天気の子風)
。
完読後に書評や読書記録する際は、他人の書評で共感できることをピックアップして自分の言葉で表現してみることから始めるのもありなのかもしれません。
そして、文章書くのが遅い僕は、この1つのブログを書き終えるのに気づいたら2~3時間かかっていました(笑)。それでも書き上げられた達成感と、自分の考えが少しスッキリした感覚で終焉を迎えられたので、良い思い出になりました。本当に思い出してる私は、時間間隔は殆ど感じないですし、僕の場合は集中しちゃうと経験してる私ですら時間間隔あんまり感じないです(笑)。
ピークエンドの法則。自分の体験の最後はポジティブな感情で終わらせるように心がけようと思います。
今回の参考文献