道徳は自分で身に身につけるもの。
子供にとって、本当に大切な道徳は自分で気づいて、身につけるものだと、ビートたけしさんの言葉に納得しました。
人を傷つけたり、本当に社会的な違反はしっかり教えた方がいいですが、学校で教えてる道徳が必ずしも正しいのか?というビートたけしさんならではの痛快な視点で書かれた本が「新しい道徳」です。
道徳とは時代によって変わるものですが、これを固定観念の様に常識化してしまってる、今の教育にも疑問をもっているところが共感しました。
その中でも特に僕が共感したのは、
・野垂れ死ぬほどの覚悟があるなら、群れからほんの少し離れる
・道徳は教えられるものではなく、自分で気づいて身につけるもの
ということです☆
野垂れ死ぬほどの覚悟があるなら、群れからほんの少し離れる
ビートたけしさんは、大学を中退してお笑いの道に進んだ瞬間が、まさに群れから離れた瞬間でした。
大学を出て、会社員になるという流れに従うことは、小魚が群れで移動することで、大きな魚に食べられる確率を下げることと同じです。
群れることは、天敵にとって、1匹1匹の小魚を認識させないことであり、組織力とはまさに、群れることで自分たちを大きく見せられるメリットがありますね♪
ここで、小魚の群れから離れることは、大きな魚に食べられてしまうリスクが上がり、野垂れ死ぬ可能性が大幅に上がります。その反面、群れの様子が少し良くわかるそうです。その先に自由があるといいます。
ビートたけしさんは、運が良かっただけで今があるけど、群れから離れることは推奨しないというので、険しい道を歩んだことがうかがえます。
群れから離れたとしても、ほんの少しだけが良いといいます。離れすぎると生きていけないそうです。
周りの常識=道徳ととらえるなら、
多数派に属さないことは、「お年寄りになんで席譲ってあげないの!?」といった印象を持たれるのと同じなのかもしれません。
自由を求めるというのは、自由を手に入れる以上の覚悟とリスクを超えることだと思います。
☑覚悟がなければ、群れから離れない方が良い。自由を求めない方が良い。
道徳は教えられるものではなく、自分で気づいて身につけるもの
親や、学校が道徳を教えるのは、本当に人として道を外さない最低限で良いのです。
子供は、自分が体験して、道徳に気づいて、身につけるものです。
社会人でも、向上心がある人は、誰に教えられるでもなく、道徳を自然と身につけると言います。
上に登っていくには、相応の道徳を身につける必要があるためです。
道徳とは、正解不正解はなく、状況によって変わる思いやりと気遣いではないでしょうか。
なので、子供には教えたい道徳が身につけられる経験の機会をプレゼントすることを考えます。
例えば、命の尊さ、大切さを教えるなら、昆虫や動物を飼うのがいいんではないでしょうか。
子供が全く面倒を見なかったとしても、その結果昆虫や動物が死んでしまったら、そこから得た気づきは、将来の宝物ではないでしょうか。
僕は、子供のころベトナム旅行に行った際に、現地のベトナム戦争の記録に触れました。その結果、子供ながらに悲惨さを感じました。
これは親や教科書が「争いはダメ、人を傷つけるのはよくない」と伝えても、ふーん程度しか感じず、心が動かないので、いざというときに忘れてしまう。その結果、理性が感情に負けてしまう場合があるかもしれません。
しかし、経験を通じて心を動かされたことは、本当に価値のある財産になるとおもいます。
この場合、感情に勝てる理性が道徳でしょうか。心の中でしっかり腑に落ちてることが大切だと思います。
今の時代は、周りの目が気になって、リスクを負わない親が増えていると思いますが、
リーダーも親も、「自分自身がすべての責任を負うからこそ、チームや子供にチャレンジを与える」ことがミッションなのだと考えます。
☑人に教えられた道徳と、自分で身につけた道徳の強さ
☑人に自分の道徳を教える楽さと、人に学んでもらうために経験を与える大変さの選択